2025/03/09
小倉南区曽根。

広大な曽根干潟を横目に、水田と住宅地の中に異様にも思える高いコンクリート塀と、その隙間から見える古い建物。

現在は陸上自衛隊曽根訓練場として、射撃訓練などが行われていると言う。

その高い壁は周囲からの視線を強く遮るように見えるが、それもそのはず。
この場所には戦時中、極めて秘匿とされるある施設があった。

日中戦争が始まった1937年(昭和12年)に開設されたここは、表向きには「火薬製造」とした兵器工場であったが、その実態は「毒ガス」を充填する化学兵器工場だった。
1925年に発行されたジュネーヴ議定書では化学兵器の使用を禁止する国際条約が定められ(実際は使用のみを制限し開発や生産は規制されなかった)、日本も署名していたが、終戦までの間秘密裏に生産が行われ、実際に使用された記録も残っている。

ここ曽根では広島県竹原市大久野島(おおくのしま)で製造された毒ガスを砲弾に充填する作業が行われていた。小倉陸軍造兵廠があり、そこで作られた砲弾を運び入れ、海路にて運ばれてきた毒ガスを充填。そこから大陸へと送ることを考えれば立地的にも適していた。
瀬戸内海に浮かぶ大久野島は1929年(昭和4年)に毒ガス製造が始まり、戦中はその事実は秘匿とされ関係者もその事を口外することは許されなかった。曽根充填所にしても「毒ガスを製造」している事実すら知らない従事者もいたと言う。大久野島はその性質から戦中は「地図から消された島」となった。
曽根の毒ガス充填所は、現役の自衛隊施設として内部を見ることはできない。
以前までは残っている建物を活用して、市街地における対テロ・ゲリラの訓練施設とされていたが、近年では老朽化が進み立入りも禁止されているとのこと。解体の話も常にあるらしくいつまでもこの姿のまま残らないかもしれない。
一方で大久野島は毒ガス工場の施設のほとんどは、接収した米軍により施設の解体や無毒化の処理が行われた。その後1963年(昭和38年)に国民休暇村が作られると本土からのアクセスも良く、リゾート地と人気を博し現在に至っている。しかし一部の毒ガス施設は残存していて、今では瀬戸内の離島としての魅力だけではなく、戦中の毒ガス兵器工場の歴史を伝える場所としても多くの人々が訪れている。
そこへ訪問できたので、戦時中は北九州とも密接な関係だった大久野島のレポートも含め、毒ガス兵器について考えていきたい。

広島県竹原市大久野島へは船で渡ることになる。
本土からは忠海港、しまなみ海道の大三島(愛媛県)盛港発の便があり、大久野島港の3つの港を行き来している。大久野島まではどちらからも概ね15分ほど。その他別航路の高速船などもある。

私は大三島の盛港より乗船。穏やかな瀬戸内海の潮風を浴びつつ少しの船旅。

まだ午前10時台と言うのにかなりの人が乗船・下船していることがわかるだろうか?
この島には特に小さい子供を連れた家族が多い。


それはこの美しい島の魅力のみならず、なんてったってのこの子達…


うさぎ!である。
国民休暇村が作られた際に、マスコットとしてうさぎが放たれたのが自然増殖したとの話。現在大久野島は定住者のいない無人島だが、うさぎに関しては数百羽から1000羽以上が生息しているとも。
戦中に動物実験としてうさぎが持ち込まれたと言う話もあるが、それは現在の個体の先祖ではないと言うのが定説。
キャッキャ言いながらうさぎと遊ぶのも楽しかったが、島に点在する毒ガス工場の名残を見てまわることにする。
まず向かったのは【毒ガス史料館】こちらの内部は撮影禁止だったが、貴重な資料や証言が展示されている。


化学物質が金属を侵すために、毒ガス製造に使われる器具は薬品に反応しない陶器製の物が多かった。タンクやパイプのみならず、バルブなども金属を使わず陶器製のものが用いられたと言う。
この島で作られた毒ガスの種類は多かったが、特に毒性の高いもので「イペリット」「ルイサイト」が挙げられる。最も生産が多かったのはイペリットでびらん性と呼ばれる特性があった。
びらん性とは少量の毒物だけで皮膚をただれさせ、呼吸器に吸い込むと強い反応を起こし死に至る猛毒の性質。ゴムを透過させたため、防毒マスクや防護服も満足な効果がなかったという。そのため作業従事者の多くは皮膚疾患や呼吸器疾患を患い、戦後も生涯に渡り苦しみ続けた。
実戦でも使われ多くの命を奪い、命こそ助かっても後遺障害は残った。そんな被害を被ったのは多くの一般市民だった。
毒ガス資料館でおおよその遺構の位置を確認したので、ここから島を時計回りに見て行く。紹介するのは巡った順番に。
自動交換機室跡(通信壕)

非常の際に連絡を取るための電話交換機が置かれていた施設。当時としてもインフラは重要だったためか分厚いコンクリート製。

写真ではわかりにくいが、うっすらと迷彩色になっている。塗装ではなく色を練り込んだコンクリートが使われているとのこと。
大久野島神社


軍による毒ガス工場が設置される以前、島に集落があった頃に現在の休暇村宿舎のあたりにあった神社を従業員が修復し移転したと言う。島で働く者の信仰の対象でもあり操業の安全も祈ったに違いない。また、さまざまな行事を行う場でもあった。
現在は災害の影響で社殿が崩壊していた。

1937年(昭和12年)には毒ガス生産による殉職者のために慰霊碑が建立されている。
医務室跡

当初は診療所のような小さな施設であったが、従業員が増えるに連れ建物も大きくなり、入院病棟も持つ総合病院並みの施設が建てられた。今では当時の水栓が残るのみ。

大久野島灯台

秘匿の島とはいえ、瀬戸内海の海の安全を守る灯台は戦中も稼働していた。
1894年(明治27年)初点灯

灯台の敷地と軍の管理地は明確に分かれており、高い塀や有刺鉄線で隔てられていたと言う。門の跡もその名残だろうか。

大久野島灯台用地の用地杭
幹部用防空壕跡

分厚いコンクリートで作られた地下防空壕は軍幹部のみが入れたと言う。一般作業者は地面に穴を掘った「たこつぼ」と呼ばれた簡素なもの。
これも緑と黄色の迷彩になっているのがわかる。
防空壕跡


小山に残る石積みは防空壕として掘られたものの入り口を埋めている。
島内で50箇所ほど防空壕が掘られていたと言う。深い物では奥行きが100mほどもあり、内部で繋がっているものも。
研究所跡

↑研究室と薬品庫

↑検査工室。毒ガス製品の検査や機密書類の保管場所でもあったと言う。
三軒家毒ガス貯蔵庫跡



二つの部屋にはそれぞれ10トンが入るタンクが置かれていた。台座からも大きさがわかる。工場で作られた液体の毒ガスはパイプを通りタンクへと送られた。
野ざらしの貯蔵タンク跡

草木が覆っているが、当時は平地だった。野ざらしになっているのはたくさんの毒ガスタンクの台座。
32基分あるとのこと。もともとは木造の建屋があり屋内での保管であった。

毒ガス貯蔵庫跡

半分が土砂に埋まっている毒ガス貯蔵庫

毒ガス工場時代トイレ跡


人々が従事していた証でもある。
長浦毒ガス貯蔵庫跡

現在も残る毒ガス貯蔵庫のなかでも最大の遺構。

容量100トンにもなる巨大なタンクを6基有していた。
工場が稼働していた15年の間に製造された毒ガスは6616トンと言われている。
戦後進駐軍からの指示で毒ガス工場そのものや製品として残っていたものは処分された。薬品を用いて無毒化したり、太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼却したものもあった。
この貯蔵庫の壁が黒く煤けているのは、その際に火炎放射が行われていた跡。

北部砲台跡

1902年(明治35年)に芸予要塞が設置されると、島内に砲台が作られ要塞の島となった。昭和に入り毒ガスの製造が始まると砲座があった場所にも毒ガスのタンクを置く貯蔵庫に変換された。

タンクの台座が遺っている。

作りとしては明治期の要塞の特徴であり、北九州内では下関要塞として遺っているものに似ている。
過去記事:森に眠る戦争遺跡 【高蔵山堡塁】
過去記事:刻印煉瓦と【矢筈堡塁】
北部砲台跡からは島の中央を南下する。ハイキング程度の山道だが運動不足にはキツい…


余談だが、この鉄塔は日本で一番高い送電鉄塔らしい。
中部砲台跡


明治期の砲台跡。6門の砲台と宿舎が良い状態で遺っている。
やはりここも毒ガス製造が始まると、毒ガス製品や原材料置き場として使われた。
南部砲台跡

島の南を守る芸予要塞としてこちらも明治期のもの。8門の砲台が置かれ、現存するのは4門。


芸予要塞時代の桟橋

石畳の桟橋は芸予要塞時代に作られた。毒ガス工場の誘致が実り、開所の日にはここから関係者が上陸し、島は歓迎ムードであったと言う。
しかしこの桟橋は本土から見えやすい位置にあったためその後使われなくなった。

発電場跡

桟橋の先にあるトンネルを抜けると、毒ガス工場としての最大の遺構である発電場跡。

毒ガスの製造は昼夜問わず行われ、その電力を賄うためにピーク時にはディーゼル発電機が8基設置され常に稼働していた。

トンネルがあるのはこの巨大な施設を隠匿するためだろうか。

天井の高さもあったことから終戦間近には、北九州の小倉陸軍造兵廠でも作られていた風船爆弾を、実際に膨らます「満球試験」も行われていたと言う。
戦後失われたものも多数あるが、それでもこれだけの遺構が遺っている。
うさぎの飛び回る平和な島の歴史は、その遺構が語りかけるかのように存在し続ける。
この他にも毒ガス製造所時代の遺構が遺ると言うが、立ち入りもできない場所もある。それでも今回島を巡るのには3時間程度だった。小さな島は多くを問いかける。

毒ガスは北九州の曽根へと送られ、砲弾への充填が行われた。
その方法は高い位置にタンクを置き、重力で流下させるというシンプルなものだったという証言もある。それゆえ事故も多く、防護服の隙間からごく僅かに侵入したの猛毒は従事者を苦しめた。

今も当時のまま残る曽根の毒ガス工場跡。
作業に従事した人は地元の人々も多かったという。きっと農業や漁業などで細々と暮らしていた人も、新たな仕事にありつけて、軍需の恩恵と意気揚々に思っていたことだろう。

秘匿の工場は家族にすらその目的を話すことは厳重に制限されていたという。何を作っているか知らない者も多かった。
ガス漏れ事故も多く、それまで穏やかな暮らしをしていた人々を蝕んでいった。
そしてどこで使われるとも知らない化学兵器は無差別に人々の命を奪った。

大久野島と曽根、瀬戸内海でつながる土地には物言わずとも卑劣な戦争を語り続ける。
後世に平和を伝えるためには、戦争が起こした悲劇を知ることが大事だ。
しかし真実とは恐ろしく、できれば知りたくないし見たくない。それは正常な思いだろう。
しかし今自分が少しでも平和であることの幸せを感じた時、知ることを恐れず、伝えることに怯まない、そんな人間でありたいと私は強く思った。
Kitakyu Heritage
Write by Taka
