キタキューヘリテージ Kitakyu Heritage 近代化遺産

離島を旅する【藍島】

time 2024/12/09


「離島を旅する」

なんと情緒的な響きだろうか。

慣れぬ地名に少し戸惑いながら買った乗船券は、桟橋を渡る軽快な足とは裏腹に、万一にも風で飛ばされぬ様、持つ手には少し力が入る。
ひとり船に乗り込み、出港の汽笛と唸るエンジンの音、呼応する高鳴る鼓動。

ほんの数分前に歩いた桟橋はやがて遠く見えなくなってゆく。

北九州から行ける近場の離島といえば、宗像市の大島や福岡市の能古島、大分の姫島など日帰りでも十分旅情を感じられる素敵な島も多い。

しかし、北九州市内でもその離島の旅は十分に味わうことができる。

行き先は【藍島(あいのしま)】

渡船は小倉北区浅野より出港する。
西日本総合展示場の東側に桟橋が設けられ、1日3便北九州市営渡船「こくら丸」が往復で運行される。

旅客のみで、車両は乗船できない比較的小さな船だ。

定員150人の「こくら丸」は2代目だそうで、平成29年就航。
この日はお盆の明けた夏真っ盛りの暑い日。

乗客はそれなりにいて、見る感じでは夏休みという時期柄、親戚や知人を訪ねる様な雰囲気の家族連れ、釣具を持った釣り人、カメラを持った若い女性二人は写真映えをするロケーションを求めてか。私の様に離島をひとり散策する様な人も見受けられた。

プロサッカーチーム ギラヴァンツ北九州のホームスタジアムであるミクニワールドスタジアムを横目に進む。
ここは海に近く、ボールが海に飛んでゆく可能性があるため試合の際には船が待機するらしい。
実際「海ポチャ」は度々起きていて、ここの名物ともなっている。

かつては日本四大工業地帯のひとつだった北九州工業地帯も今は昔。
その衰退のため北九州は省かれ、教科書では三大工業地帯と呼ばれている。
それでも海から見る工場群は北九州が工業地帯だと再認識させられる。

浅野の渡船場から出港した船は、約25分で経由地の馬島(うましま)の港に着く。
馬島はわけぎの栽培や海藻である”あかもく”の加工が主な産業。

馬島では数人下船したが、すぐに出港して藍島へと向かう。

この海域では2024年現在、洋上風力発電の工事が行われていて、SEP船(Self-Elevating Platform 自己昇降式作業台船)と呼ばれる自らが昇降して基礎工事を行える特殊な船が工事を進めていた。写真奥に見える黄色いのがその基礎。
この基礎の上に風力発電のプロペラが建てられる。

東を見れば関門橋が小さく見えた。こちらから見ることは初めてなので新鮮。
計画されている北九州下関道路の吊り橋が完成すれば、また景色も変わることだろう。

馬島からは藍島まで15分ほど。進むにつれて見えてきたのは白洲灯台。
徐々に近づき大きくなってくる。

過去記事:岩松助左衛門と【白洲灯台】

藍島の堤防内にゆっくりと侵入すると船は180度方向転換をし、着岸。
係が手際よく係留すると、いよいよ約40分の船旅を終え上陸する。

藍島(あいのしま)は北九州市小倉北区に属する有人島で、人口は年々減少して高齢化も進んでいる。こればかりは離島に限った話でもない。

藍島は「猫の島」とも呼ばれさっそく渡船場の待合室周辺で猫が迎えてくれた。

しかし暑さのあまり涼しいところに隠れているのか、それほど猫が多いとは思えなかった。それでも島内ではよく見かけた。特定の飼い主がいない、島の人たちが協力し管理されている地域猫だ。その証拠に耳にカットされた印が付けられている。

藍島は南北に約2キロと細長く小さな島ではあるが、漁港が3ヶ所ある。
渡船場のある島南部に本村漁港、東側に大泊漁港、そこからやや離れた北西部に寄瀬浦漁港があり、当然ながら漁業を中心に生活が営まれている。

島の生活の中心はそれほど離れていない本村漁港と大泊漁港周辺、民家も概ねこのエリアに集中している。

「それほど離れていない」とは言ったが、本村漁港エリアと大泊漁港エリアでは、かつて山道を超える必要があった。

藍島には高い山はないが、地形的にどうしても不便な道を通らざるを得なかったのだろう。
大泊には小学校があり、本村から通学する小さい子や高齢者には堪えたはずだ。

そこで1962年(昭和37年)その下にトンネルが掘られることになる。

藍島隧道(あいのしまずいどう)だ。
全長は41メートル、機械を用いて掘られたとのこと。ポータルはコンクリート造で内部は素堀りでコンクリート吹き付け。

内部には照明もあり、自動車の通行も難なくできる。

この隧道の完成により、両漁港間の通行は劇的に便利になったことだろう。
しかしこの隧道が掘られることとなった経緯については資料が乏しくはっきりとした確証がないことはご了承願いたい。
一番参考となったのは…

この看板!
藍島小学校の児童が島を訪れる人に向けて、藍島の見所を説明してくれたもので、島内にいくつかある。
ほっこりしつつ藍島の島民には欠かせない大事な大事なトンネルだと感じられた。

説明版にも書いてある通り、確かに内部は風が吹き抜け涼しくひとときの休憩の場になった。

トンネルを抜けると大泊、市民センターや藍島小学校があり、島内の方々が集う場所だ。

島には小学校までしかなく、中学校に行くには本土に渡船で通う事になる。
しかし日に3便しかないため、部活動などがあれば帰って来られない。
そのため寮暮らしを選択し、島を離れる子もいるとのこと。

大泊から少し戻る。
藍島隧道の南側には、トンネルを抜け小学校のある大泊方面か、島の北側へ向かう道へとの小さな分かれ道がある。案内がなければ見落としそうだが、小さな島なので間違えれば戻ればいいし、迷う心配もあまりないと思う。ただ帰りの渡船の時間だけは気にしたいところ。

島の中央部の高台には史跡がある。

藍島遠見番所旗柱台(あいのしま とおみばんしょ はたばしらだい)だ。
江戸時代、大陸からの密貿易船を発見し、本土へ知らせるため大きな旗をこの柱から立ち上げたそうだ。
その大きな旗は現在の櫓山荘公園(小倉北区中井浜)あたりにあった境鼻番所で確認していたそうだ。
直線距離では11キロほどある。距離感を考えるとかなり大きな旗だった事だろう。藍島小学校には実物大の旗があるらしい。

…藍島小学校児童の看板情報だが。

道を北へと進む。
高低差もさほどなく、真夏でも木々に囲まれているので散策には気持ち良い。

白洲灯台が近くに見えた。
白洲は立ち入り禁止なので、肉眼で見るにはここが一番近い場所だろう。

北の端で道は終わる。
この辺りまで寄り道し、ゆっくり立ち止まりながらでも渡船場から45分ほど。

千畳敷(せんじょうじき)
運良く潮が引いていたので、岩盤が作った海岸の広大さが感じ取れた。

そこから見えるのは大藻路岩灯標(おおもじいわとうひょう)
1895年(明治28年)初点灯、こちらは山口県、妙に大きく見えて少し怖かった。
白洲灯台もそうだが、明治期に海の難所とされた場所にこれほどの灯台を建てた事は、海の安全への強い思いが表れている。そして難工事だったことは想像に難くない。

千畳敷の東側からも関門橋が見えた。
ここで持参したコンビニ弁当を日陰で広げる。

大陸からの漂着物は多いが、海風が心地よく、誰かが置いたベンチでしばし横になった。

この離島特有の壮大な景色は写真や言葉では言い表されないので、ぜひ現地に赴いてほしい。

千畳敷からは西へと向かう。
寄瀬浦漁港エリア。

大江権現
島内には数ヶ所神社が祀られている。
海の安全と島の人々の健康を祈って来られたのだろう。

ゆっくりと路地を通りつつ渡船場方面に歩く。

路地を抜けると表れた鳥居。そこから階段を登った高台には荒神社

島の海風での風化もまた自然。海岸で同じ様な紋様になっている岩を見た。

藍島には藍島盆踊と言う市指定の無形民俗文化財があり、島の人々で伝承されてきた祭りがあると言う。

藍島への航路では自動車は運ぶことができないが、島内には生活の足として車や原付バイクが走っている。
狭い道が多いので軽自動車が多い気がするが、そもそも法律で定められている規格の話ではない…
写真は廃車置き場ではないぞ。島内のほとんどにナンバープレートはなく、原付もノーヘル。
ここらへんは多くは語るまい。

藍島隧道を抜け渡船場へと向かう。

本土の工場群の騒音も感じない、時間のゆっくり進む離島の雰囲気。

豊かな海を求めて、釣り人からも好まれる。

猫も呑気に自由に過ごし、小倉駅から1時間ほどの場所とは思えない長閑さ。
渡船場の桟橋では島のこども達が海に飛び込んで遊んでいた。

この日の藍島発の渡船の最終は15:30
帰りの船の時間さえ気にしなければいつまでもぼーっとしていたいところだが、そうもいかない。

夏の日差しはまだまだ強い8月の中頃の離島ひとり旅。
近くて遠いのか遠くて近いのか。

旅の終わりの寂しさも感じながら船に揺られ、40分で見慣れた街の景色へと戻った。

北九州市小倉北区藍島。

「離島を旅する」情緒は思った以上に近くにあった。

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Write by Taka

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Taka

Taka

1981年生まれ 北九州市門司区在住 愛車はVolkswagen The Beetle / Vespa LXV125 / Moto guzzi V7(850)  かつてはカフェ勤務経験ありのコーヒー好き。調理師免許所有。街歩き 人間観察 ひとり旅 基本陰キャのコミュ障。悩みは飼い犬(ミニチュアピンシャー)が懐かない事。 人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。