キタキューヘリテージ Kitakyu Heritage 近代化遺産

小倉と兵隊と、きゅうりのみそ汁

time 2024/03/12

もう30年以上も前の話だ。

当時小さなアパートで一家4人で暮らしていた。そのすぐ隣の棟には母方の祖父母が住んでいた。

母方の家系には女の子が多く、初めてできた男の子の孫に、祖父はたいそう喜んだと聞く。
私の名前の一部には祖父の名の一文字をもらい、私自身も祖父によく懐いていた。
幼稚園に路線バスで迎えに来てくれて、裏の神社で銀杏を拾って帰ったことを思い出す。

神道の家系だった事もあり、散歩ではよく神社へ寄り道をしていた。通り沿いのちいさな祠やお地蔵さんにも手を合わせ、見真似で目を瞑っていたとは言え、これは大事なことだと幼心に思ったものだ。

◇◇◇

ある日、何かしらの行事があったのか、祖父を一人残し祖母も含め家族で出かける事があった。

翌日、祖父の待つアパートの小さな台所に、雪平鍋に残ったみそ汁があった。

その具にはきゅうりが入っていて、「じいちゃん、みそ汁にきゅうりは入れんよ!」とみんなで笑った。
記憶に祖父が料理をする印象はなく、冷蔵庫の有り合わせの食材で適当に作ったんだろうと。

祖父も「そう??」と笑いながらおどけていた。

それはその後何かあれば笑いぐさとなり、「きゅうりのみそ汁」は我が家の鉄板のエピソードとなった。

そんな記憶も薄れ、祖父が亡くなったのは2011年だった。

◇◇◇

祖父亡き後、北九州の戦争の歴史などにも関心を持ち、戦跡を巡ったりいろいろな文献などを読んでいたとき、ある本の一行にハッとこの記憶が蘇った。

北九州出身の中原澄子さんと言う方が執筆された「小倉陸軍造兵廠」と言う本だ。
著者の中原澄子さんが戦時中に実際に体験されたことや見聞きした内容を書かれている。


その前後の文章は割愛するが、小倉陸軍造兵廠内での食事の際のエピソードだった。

“廠内の味噌汁の具に薄っぺらな胡瓜が使われていたのには驚いた。”

著者:中原澄子 2012年9月2日発行 「改訂版 小倉陸軍造兵廠」 創言社 より

◇◇◇

祖父は陸軍の兵士だった。その入隊した経緯や軍歴こそ今となっては聞くことはできないが、遺品の中に満州に出兵していた記録がある。

隣り合わせの小さなアパート暮らしだったと先ほど書いたが、毎日の風呂は節約のため一方で沸かしていた。
毎夕祖父は風呂に入りにきていたが、縦横比の小さい、深いステンレスの浴槽にいつも一緒に入れてもらっていたものだ。
祖父の脇腹には傷があり、これは鉄砲で撃たれた痕だよ、と度々聞いていた。幼い私にどこでどんな状況でなど話すことはなかったし、それが怖いことだと理解できる年齢でもなかった。

今となっては祖父の戦争体験を大人になってもっと聞ければよかったと後悔している。

戦争のことを話したがらないと言う事はきっとなかっただろうし、伝えたかったこともあったのではないかと今更考える。

思春期で会話も少なくなり、その後就職や結婚で話す機会を失ってしまった。

◇◇◇

祖父の軍歴は解らないが、亡くなった後聞いた話がある。

「昭和20年、8月9日の朝、祖父は小倉にいた」

◇◇◇


祖母が大事に飾っていた賞状は、祖父が昭和16年に陸軍の銃剣術の競技会での成績優秀で貰ったものらしい。
「満州第五五八部隊」の記載がある様に、この時期満州に出兵していたことは確かだ。

ひとつの部隊に留まることは考えにくいので、その後終戦までいくつかの部隊を異動していたのではないかと推測できる。

この満州第五五八部隊に限っても資料が乏しく、その足取りははっきりとは分からなかった。

しかし終戦直前、なぜ日本に戻ってきていたのか疑問は残る。

そこで引っかかるのはあの脇腹の傷だ。

◇◇◇

どの前線で負傷したのかも、その傷の度合いもわからないが、これがきっかけで日本に帰還していたのではと考えた。

小倉は陸軍の”軍都”であった。大規模な陸軍の施設は造兵廠(兵器工場)から兵士を訓練するための練兵場、陸軍病院もあった。


実際に当時小倉の陸軍病院は大陸からの負傷兵の還送先となっていたと言う。
数年前には現在の小倉医療センターで、戦中、負傷兵から摘出された弾丸などが複数見つかったと言う話もあった。

祖父が大陸で負傷し、小倉に帰ってきていた可能性もある。
もしかしたら満州の後に、南方に送られていたと言うことも否定はできない。

祖父が語った戦時中の思い出で「お腹が空いて蛇を捕まえては、首をパキッと折ってわらびを剥く様に皮を剥いで食べた」と話をしていたことも思い出す。

幼い子供に対して面白く話している様にも聞こえたので、私はそのひもじさを感じることはなく、ただただ変なのーと笑っていたと思う。
今思えば蛇を捕まえると言う話は、南方のエピソードの様な気もしなくはない。

仮に終戦まで大陸にいたのであれば、日本までの引き揚げが困難であったことは知る話。
直前のソ連の宣戦布告から、あるいは兵士とあれば抑留される事もあったし、仮に帰国を認められたとしても、その行程は終わりなく感じられ、命をも落とす者もいるほどの遠き道。

ただ事実として、あの朝、祖父は小倉にいた。

◇◇◇

あの朝、昭和20年8月9日。
未明テニアン島を飛び立ったB-29は視界不良から第1目標の小倉への原爆投下を断念し、その数時間後、第2目標であった長崎へ原爆を投下した。



祖父は「生き残った」

◇◇◇

戦争も末期の頃、あらゆる物資が足りず、食料も満足に得られない状況。
それでも造兵廠は動き続けた。その中で働く者、特に若い女性が多かったと言う。そこで出されたきゅうりのみそ汁。



いくら空腹に耐え、身はぼろぼろだったとしても、みそ汁にきゅうりの具が入っていることには違和感があった。きゅうりをみそ汁の具に使う地域はあると言うが、少なくとも北部九州では異質に見えたのだろう。

『祖父は、小倉のどこかで「きゅうりのみそ汁」を食べた記憶があったのではないか』

あくまで仮説だが、負傷し陸軍病院に入院していたとすれば、その給食で出されていたことも考えられる。
いくら栄養の必要な病院食とは言え、食料の不足は深刻であっただろう。

◇◇◇

少ない祖父との思い出はただ、胸の内に仕舞っておくことも考えた。
しかし、終戦から月日が経ち、その語り部は間違いなく少なくなっている。

私の世代ではまだ平和学習で、戦争を体験した方々からお話を伺う事ができたが、この執筆時点では戦後79年。
仮に物心のつく10歳ごろで終戦を迎えた方でも90歳近くになられる。

私の子供の世代からすると、曽祖父母の世代だ。
実際に実のひいじいちゃん、ひいばあちゃんから戦争の話を聞くことはもうない。



語られなかった片隅の戦争記憶、どれだけのことが語られず「戦争の生き残り」たちの胸の奥で消えていったのか。

今となり、祖父が神社で手を合わせ何を願っていたか、誰に語りかけていたか少し分かった様な気がした。


◇◇◇

祖父は晩年、脳梗塞を患い右半身は麻痺し、喋ることも不自由だった。胸部大動脈瘤破裂で救急搬送され、危篤と聞き私が病院に向かったときには集中治療室の中だった。

しぼりだすように「ありがとうね」と言われた。最後の言葉だった。
そしてもう命が尽きようとする人間とは思えないほどの力で私の手を握った。

戦争を経験し、苦しみ嘆き、そして幸せと平和であることを噛み締めてきた長い長い人生。

激動と言われる時代を生きてきた男が伝えたかったことは、これからの私の生涯の中でひたすら探し続けることだろう。

Kitakyu Heritage / キタキューヘリテージ
Write by Taka






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Taka

Taka

1981年生まれ 北九州市門司区在住 愛車はVolkswagen The Beetle / Vespa LXV125 / Moto guzzi V7(850)  かつてはカフェ勤務経験ありのコーヒー好き。調理師免許所有。街歩き 人間観察 ひとり旅 基本陰キャのコミュ障。悩みは飼い犬(ミニチュアピンシャー)が懐かない事。 人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。