キタキューヘリテージ  Kitakyu Heritage

痕跡も残らぬ【曽根火薬庫】と専用線

time 2013/03/28

北九州には陸軍第十二師団が置かれていた事もあり、軍事施設が多数あった。
兵器の製造工場や、毒ガス弾の充填所、弾薬庫や火薬庫、特攻艇の基地・・・
今となってはその面影を残すものも少ないが、現在も遺る物もある。

今回紹介するのは、その面影を全くと言って良い程残さない軍事施設だ。
【曽根火薬庫(そねかやくこ)】だ。
正確な名称こそ不明だが、”陸軍航空本部福岡支所” ”曽根弾薬庫” ”横沼火薬庫” などと呼ばれていた様だ。
ここでは【曽根火薬庫】と呼ぶ事にする。
北九州市小倉南区。
その場所は現在は「文化記念公園」として整備され、日本庭園やアスレチック、プール、野球場、テニス場など、総合体育公園として市民に開放されている。

当時はその場所まで、日豊本線下曽根駅から約1.4kmの間に専用線が引かれ、列車によって弾薬や火薬などが運ばれていたと言う。
下曽根駅から南へ緩やかなカーブを描く道があるが、それが専用線の跡だ。

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↑下曽根駅舎から見る。右上が専用線跡。線路奥は行橋方面。

ゆるやかなカーブが線路跡を思わせる。

小川を渡るコンクリート橋も当時の物とは思えなかった。

道路となったカーブを行くとほどなくして建物に行く手を阻まれ、その先線路跡はすっかり住宅地へと変わり、もはや痕跡を見つける事は出来ない。

スマートフォンのGPSで位置を確認しつつ歩いてみてもその痕跡は無い。



専用線の枕木発見!?とか思いつつ向かいには大型の園芸用品店が・・・園芸用の古い枕木だろう。
線路跡を道を抜けると、国道10号線バイパス、田原交差点に出る。

矢印が専用線跡。
そこに気になる物が。

[建設省]と書かれた用地杭があった。国有地だ。
この二つの間がちょうど線路跡と重なるんだよな・・・関連性は不明。
国道を渡ると、市立田原中学校と県立東小倉高校があり、その間が切り通しになっている。

恐らくこの道路が線路跡ではないかと思われる。
なにぶん軍事施設であったため、資料に乏しく断定は出来ないのを了承していただきたい。

両側が小高くなっている。
抜ければ広大な敷地を持つ「文化記念公園」へと到着する。
ここにはかつて軍事施設だったと言う面影は微塵も感じる事は出来ない。
穏やかな時間が流れ、市民の憩いの場となっている。
当時は日本庭園の池も無く、火薬庫が広がっていたと言う。
その全貌は解らない。
しかし、この火薬庫は戦後の1946年(昭和21年)5月4日、未曾有の大惨事が起こる。
大量の火薬・弾薬に引火し大爆発が起こったのだ。

戦時中、下曽根駅から陸軍航空本部福岡支所(当時の支所の住所地は「小倉市大字曽根町大字横沼」)までの1,400mの区間に、火薬類などを運び入れる専用線があった。戦後の1946年(昭和21年)5月4日午前10時30分頃、この支所に集積してあった爆弾が突然爆発し、約一昼夜に亙って爆発が繰り返され1人が即死、6人が行方不明、16人が重軽傷を負ったほか、家屋6戸が焼失、6戸が全半壊、約1,000戸もの窓ガラスが割れるなどの大惨事となった。その爆発音は筑豊地区まで届いたという。この爆発により、駅も爆発物の破片によって窓ガラスはすべて割れ建物の壁は崩れ落ちるという大損害を受けた。幸いこの爆発の際には火薬を載せた貨物列車や旅客列車をすぐ避難させたため、駅での負傷者は出なかったという。しかしながら専用線はレールがぐにゃぐにゃに曲がり、停まっていたはずの貨車3両は跡形もなく消し飛んでいたらしい。この爆発事故については未だ事故原因が不明だが、近年では爆弾の集積所近くで子供の遺体が見つかったことから、打ち上げるとパラシュートが開きその風圧で信管が爆発するタイプの高射砲弾で子供たちが遊んでいたときに誤って爆発し、それが他の爆弾を誘発したものだとみられている。この専用線はその後1951年(昭和26年)に廃止され、この支所地も後に日本化薬の倉庫となるものの1977年(昭和52年)に廃止されて北九州市に売却され、現在は文化記念公園や小倉東高校になっている。

Wikipediaより引用
曽根火薬庫はその後民間に渡り、1977年(昭和52年)まで火薬庫として使われていた様だ。
昭和49年の航空写真にそれを見る事が出来る。
〈国道交通省の航空写真閲覧サービスが終了したため画像がなくなてしまいました〉

建家の周りに特徴のある幾何学模様が解るだろうか?
これは火薬庫の周りに盛られた盛土だ。
万一引火した際、延焼しないようにとか、被害を最小限に止める為だと言われる。
↓陸上自衛隊小倉駐屯地にも同じ様な施設があるのが解る。

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恐らく爆発事故が起こった当時にも同じ様な盛土がされていたのだろう。
しかしその甲斐もなく大きな被害と死傷者が出てしまった。
現在ー
それを語る物は無い。
慰霊碑すら建てられず、そこに”戦争が起こした”悲劇を知る者も少ない。

あたかもその痕跡を消し去り、無かったかのようにしているかのようだ。
戦時中の混乱は想像もできない程平和な時代に暮らしている。
しかし、今我々がこの平和を感じる事が出来るのは、戦時中を生き抜いて来た、僅か数世代前の人達が居る事を忘れてはならない。
知る事を恐れずに、語り継ぐべきモノがここにはある。

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コメント

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    南小倉の山田弾薬庫は、終戦後米軍が駐留し管理していましたが、
    下曾根の曽根弾薬庫は、終戦と同時に閉鎖され、米軍の駐留は無かったようですね。
    曽根弾薬庫一体を公園化する為の造成工事の時に、残留弾薬が見つかり、一時工事が中断したと耳にした事があります。
    造成工事が始まったのが、昭和54年だったと思います。
    すでにその当時には引き込み線は生活道路へと姿を変え、遺構となるものは何も残っていませんでした。
    山田弾薬庫の方は、昭和54年までは引き込み線は残存しており、線路もそのままありました。米軍は昭和50年まで駐留して管理していたと記憶しています。

    by 安藤 €2016-02-24 13:01

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「0哩 ゼロマイル〜北九州の近代化遺産〜」が「Kitakyu Heritage キタキューヘリテージ」として新たに出発しました。北九州のディープな魅力を再発見!

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Taka

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北九州市在住。ベスパとハーレー、両極端のバイク乗り。北九州を愛し、北九州の魅力の再発見に余念が無い。人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。