2024/07/01
北九州市小倉南区徳力(とくりき)
小倉駅を出発した北九州モノレールは、やがて国道322号と並走し、右手に競馬場を過ぎると、車両基地のある企救ヶ丘へと大きく左へとカーブする。
国道322号をそこから少し南下すると紫川を渡る【桜橋】に出会う。
この桜橋から上流を望むと小高い山が見えるが、この景色は京都の嵐山に似ているということから、小倉城城主、細川忠興にゆかりのある俗称【小嵐山】とよばれるようになった。
5月には川を渡らせた鯉のぼりが多数泳ぐ風光明媚な場所でもある。
その傍ら。
片側2車線の国道の中央分離帯、高いフェンスで囲まれた何やら円形のものがある。
横断歩道を渡り近づいてみよう。
【徳力の円形分水(えんけいぶんすい)】だ。
紹介早々申し訳ないが、この名称が正しいのかはわからない。
さらに建立年、建設に至った経路、わかっていない。
資料がないのだ!
現地には銘板や説明板、小倉南区図書館を訪れるもこれに関した資料は一切見つからなかった。
よって、推測、憶測、不確かな要素を含むことをご了承願いたい。
まず、円形分水とはなにか?
円形分水(えんけいぶんすい)は円筒分水(えんとうぶんすい)などとも呼ばれており、日本各地に存在する。
水田農耕を行う日本では、その農耕用水の確保が重要であり、時に水をめぐって争いが起きていた。
それを解消すべく、公平に用水を分配するために作られた利水施設だ。
今でも農耕用水は自然の水利にたよっているが、昔は干ばつのたびに起こる水不足は深刻だったのだ。
とある地方では水争いによる紛争で軍隊が出動、鎮圧したという穏やかでない事例もあったらしい。
円形分水とはこの争いを治めるべく、先人の知恵と工夫で作り上げられた施設なのだ。
仕組みとしては、中央部の穴よりサイフォンの原理を利用して水を引き入れる。
引き入れられた水は公平に分配できるように極めて水平に作られた外側の壁から溢れ出す。
溢れ出す水を仕切りや溝、穴などによって円周の比率を定め、各方向(農地)へと分配される。
これを公平に分配するには、ごく高度かつ高精度の土木技術を必要とする。
重力下では水の流れこそ自然に水平に広がるが、それを土木技術で制御し、電気や動力を使わず今なお機能し続けているのだ。
資料によると、このサイフォン式円形分水は1941年(昭和16年)に日本で初めて作られたという。
しかしこの【徳力の円形分水】は竣工年は不明。
国土交通省が提供している「地図・空中写真閲覧サービス」を見てみよう。
上記画像は1961年(昭和36年)の航空写真だ。
写真中央に逆Yの字の間がその場所だが…
続いてはこちら
↑1966年(昭和41年)の航空写真
う〜ん。
↑1969年(昭和44年)の航空写真だ。
広域の写真だったため、拡大で解像度が下がってはいるが、なにやらぽっかりと黒い点が見える。
次はカラー写真となったこちら
↑1975年(昭和50年)の航空写真。
こちらにははっきりと円形の構造物が写っている。
1960年代の画像は判別が難しいが、まだ無いと仮定した場合、概ね1960年代後半から1970年台初頭ごろ作られたのではないだろうか?
そう考えると、円形分水としては比較的新しい、あるいは最後期に作られたものかもしれない。
コンクリート製ではあるが、その見た目だけでは製造年代を判断するのは難しかった。
取水場所は不明だったが、紫川より取り入れられた水は3方向へと分配されている。
現代は周辺に農地は少なく、ほとんどが宅地となっているが、かつては一帯が水田だった。
写真の赤点が円形分水の位置。
河川を跨ぐとは考えにくいので、おそらく、円形分水のある場所より北側の農地へ向けた分水だったのではないだろうか。
ならばもう少し下流(写真の上方向)でも良いのでは?と疑問が残る。
推測だが、上記写真でもわかる通り、通りを挟んで宅地が密集している。
この通りはかつての「秋月街道」だった。
そのため、現代に続く目抜き通りとなっていることから、通りを往来する人々からより目立つ位置に設置したということも考えられる。
円形分水はその性質上、不正を行った場合すぐわかってしまう構造だそうだ。
不正防止のため目につきやすくする、とは思いにくいが、設置当時は物珍しさがあったことは想像に難くない。
かつてこの地で水をめぐる争いがあったのか、あるいは争いを未然に防ぐために設置されたのか。
それもわからない。
その名称も、歴史も、設置に至った経緯も不明だが、逆に考えれば農地の用水路や畦道に名前がないように、この円形分水もあたりまえに運用され、あたりまえに歴史を刻んできただけなのかもれない。
KitakyuHeritage
Write by TAKA