キタキューヘリテージ Kitakyu Heritage 近代化遺産

かつての鉄路を照らす【金田跨線橋の架線柱】

time 2021/01/03

かつての鉄路を照らす【金田跨線橋の架線柱】

小倉北区金田(かなだ)

裁判所やJR九州総合車両センターがあるこの地を貫く県道27号線。

ゆるやかなカーブを描きJR日豊本線を越えるこの道は【金田跨線橋(かなだこせんきょう)】
あるいは俗称的に【金田陸橋(かなだりっきょう)】と呼ばれることもある。

その道幅は歩道を含め、かなり広く感じる。

さらに一般的な跨線橋と比べ、勾配がゆるやかなのも特徴だ。
それはこの橋はかつてここを走っていた西鉄北九州線と車道の併用道路だったためだ。

鉄道の車輪とレールは鉄製のため、摩擦係数が低く勾配が大きければスリップして登れない。
鉄道の弱点である急勾配を避けるために、このような緩い勾配で日豊本線を超えていたのだ。

竣工は1966年(昭和41年)

1911年(明治44年)に門司-黒崎駅間が開通した。
それ以前に日豊本線は1895年(明治28年)に開通しているので、開通当時から日豊本線を立体交差で跨いでいた。

その時は【板櫃跨線橋(いたびつこせんきょう)】の名で電車の専用軌道として跨いでいたが、後にその下を日豊本線の踏切で平面交差する道路の通行の利便性向上のため、この板櫃跨線橋が拡張され軌道も車道との併用となり、古い専用軌道の鉄橋は撤去された。

1992年(平成4年)10月25日に西鉄北九州線 砂津ー黒崎間が廃止され、かつてこの地を走っていた路面電車のことは遠い記憶の中、あるいはそのものを”知らない”世代も増えた。

側道に小さな”西鉄”の基準点を見つけた。これも路面電車が走っていたことを物語るものだろう。

時の流れにその痕跡もすっかり消えてしまったかのようだが、実はこの【金田跨線橋】にはかつての名残が今も生きている。

廃止当時は一部にしかなかった歩道を今照らしているこの背の低い街路灯。

これは当時の西鉄北九州線で使われていた【架線柱(かせんちゅう)】の名残りである。

架線柱とは名の通り架線を支える柱、すなわち電車へ電力を供給するための電線を支える柱である。

この架線柱の存在を知った時は「柱を再利用した」と聞いていたので、てっきり柱を解体する際に小さく切って新たに設置したものと思っていたが、当時の資料をよく観察してみると、それは間違いだったとわかった。

YouTubeに貴重な当時の西鉄電車の車載映像を見つけたのでそちらをご覧いただきたい。


動画開始より18:00ごろから金田跨線橋へ向かう映像がある。
2:33〜2:58には俯瞰で撮影された金田跨線橋の映像があるが、そちらを見ればこの架線柱が当時のものだということがよくわかる。

追記:YouTubeの動画が削除されている様です。とて残念です、ごめんなさい!

そう、この柱はもともとこの場所に設置されていた架線柱そのものであり、上部のみを切断し短くして照明を取り付けていたのだ。

現物をよく見ると気付くが、この小さな柱に対して不釣り合いにかなり強固に固定されていることがわかる。

高い架線柱を倒れないように基礎へがっちりとボルトで固定していたのだ。

この筋交が入った構造の架線柱は西鉄北九州線沿線でよく使われていたもので、さきほどの動画にもたびたび見ることができる。




しかし沿線の架線柱のほとんどは廃止後解体され、その姿は見ることはない。

レールの上を見上げれば、架線が網目のように張り巡らされていたのも懐かしき記憶の風景ではあるが、この金田跨線橋にはかつての鉄路を忘れるなと言わんばかりに、廃線後新たに設置された歩道を照らすために今なお生き続ける、西鉄北九州線の貴重な遺産なのである。

Taka

◇◇◇◇◇

参考書籍:-西鉄の路面電車・定点対比- 福岡・北九州市内電車が走った街 今昔
著者:奈良崎博保 JTBキャンブックス 2002年初版発行

コメントを残す

カテゴリー

Kitakyu Heritage / キタキューヘリテージ

Taka

Taka

1981年生まれ 北九州市門司区在住 愛車はVolkswagen The Beetle / Vespa LXV125 / Moto guzzi V7(850)  かつてはカフェ勤務経験ありのコーヒー好き。調理師免許所有。街歩き 人間観察 ひとり旅 基本陰キャのコミュ障。悩みは飼い犬(ミニチュアピンシャー)が懐かない事。 人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。