Kitakyu Heritage

八幡中央町と【よしぼう橋】

time 2026/03/07

八幡東区中央町
1901年(明治34年)八幡製鐵所の高炉に火が入ると、何もない農村だった八幡の街は製鉄の景気に沸いた。

その景気にあやかろうと多くの人々が八幡を訪れ人口は増え、街は活気付き繁華街が形成されて行った。

太平洋戦争が始まると軍需の色濃くなった製鉄は当然ながら米軍による攻撃対象とされ、1944年(昭和19年)6月16日にはB29による本土初の空襲が行われたのもこの地。

その後度々の空襲を受けながら、終戦の一週間前、1945年(昭和20年)8月8日には、のちに八幡大空襲と呼ばれる大規模な空襲で八幡の街は焼け野原となった。

八幡中央町商店街はそんな戦火を超え、活気を失うまいと戦後もたくましく八幡の商業の中心として運営を続けた。しかし現代に至るまで度々火災が起きては、その密集した商店街に大きな被害が出ていた。

1964年(昭和39年)8月24日に起きた火災は幼い子の命を奪った。当時小学4年生だった男の子が火災に巻き込まれたのだ。

時は高度経済成長真っ只中、金の卵とも呼ばれた子供たちの未来が失われたことに街は悲しみに暮れたに違いない。
しかしそんな子供たちに悲しい事故が起こらないよう、この地に今も残るものがある。

【よしぼうはしだ。

北九州市立八幡小学校と中央中学校へ向かう片側二車線の広い道路に架かる、なんの変哲もないような歩道橋だが、その傍らにある碑にはこう書かれている。

よしぼう橋のいわれ
 昭和三十七年八月二十四日 中央区をおそった火災は 八幡小学校四年生 原田善博君の幼い命をうばい去った 善博君の両親 原田三郎 久恵夫妻は 今はなき善博君の供養のため あまねくひろく児童 生徒を 交通禍から守るため ここに陸橋を寄贈された
 生前の君が愛稱(愛称)をとって「よしぼうはし」となづける よしぼう 逝って百ヶ日 落成式にさいしそのいわれをしるし冥福を祈る 合掌
昭和三十七年十二月一日
八幡小学校 中央中学校 八幡市教育委員会

中央町で起こった火災で失われた幼い我が子を偲ぶために、その亡き子の両親が、小中学校の通学路でもあるこの場所に私費で歩道橋を架け、当時の八幡市に寄贈したとされる。
その歩道橋には亡くなった善博君の愛称であった”よしぼう”の名をつけた。

何度も塗り替えられているのだろうか、文字が潰れて読めない製作会社名と、1962年10月の文字が読み取れる。橋自体は当時のままのようだ。

◇◇◇

よしぼう橋の近く、中央町交差点は福岡県下において二番目、北九州では初めて設置された信号のある交差点。

福岡市天神交差点に続き1935年(昭和10年)に信号機が設置された。全国的にもまだ自動車は珍しい頃だったはずだが、この地がどれだけ繁栄していたのかが伺い知れる。
東西へは路面電車が併用軌道で走り、北方向には枝光支線が分岐していた。

信号機の設置当初は車道に舗装もなかったのではと思うが、製鉄所関係の自動車が砂煙をあげて走っていたのだろうか。製鉄所のそれなりの立場の人たちや、あるいは要人らが自動車で送迎されていた事も想像できる。
本事務所から今の北九州都市高速大谷出入口付近にあった八幡製鐵所の従業員用クラブ【大谷会館(2021年解体)】へ向かうのもここを通ったはず。


よしぼう橋が架けられた時期は、まさに自動車が急速に発展するモータリゼーションの時代。
今でこそ交通量は多くはないが、1966年(昭和41年)に戸畑バイパスが完成する前までは交通量はかなりあったと思われる。


自家用を含め自動車が爆発的に増え、比例するように交通事故も増えた。自動車の増加に道路の整備も追いつかない時代だったともいう。自動車社会への過渡期でもあったため、マナーやルールの構築もなされていない状態。

1960年代は交通事故が社会問題とされ、その交通事故での死者数の水準が日清戦争の死者数を超えたことから「交通戦争」とまで呼ばれた。

そんな交通事故に子供たちが巻き込まれないよう、中央町で亡くなった男の子の両親は未来の子供たちのためにと悲しみの中、安全に通行できる歩道橋を架け、寄贈したのだ。

◇◇◇

そこで単純な疑問が発生する。こんな立派な歩道橋を私費で建設し寄贈するなんてどんな人だったのか?
碑文からの少しのヒントから深掘りすると、X(Twitter)からいくつかの情報を提供していただいた。
まさにこの近辺で幼少期を過ごされたと言うフォロワーさんのお母様の話。

『70代の母が言うには、”中央町は度々火災が起きていて、そのころ八幡饅頭さんも火災になった記憶が…”』

銘菓八幡饅頭を販売する鶴屋本舗は確かに中央町に本店を構えており、よしぼう橋にもほど近い。

そこで鶴屋本舗公式HPを閲覧したところ、創業者の名前に碑文に刻まれていた原田三郎氏の名前が。

そこからおおまかに時系列を考えると、原田三郎氏が20歳で徴兵に入り、22歳で除隊してすぐの昭和5年に開業したとする。よしぼう橋が竣工したのが昭和37年なので54歳の頃、多少高齢ではあるが小学4年生、10歳の子供がいてもおかしくない年齢だ。あくまで得られた情報内での憶測なので事実とは異なるであろうことはご了承願いたい。

そのころの八幡饅頭の売り上げは八幡の賑わいに比例しかなりのものだったと言う。

そんな栄華を誇った鶴屋本舗の創業者であれば、私費での歩道橋の建設、寄贈も納得できる。
よしぼうの死からわずか100日での完成というのも今の基準では到底考えられないが、八幡を代表する企業となっていた鶴屋本舗の各方面への影響力、コネクションはそれなりにあったと考えられる。

と、推測ではあるが、わずかな手がかりから判断できる事はこれくらいだ。
古くを知る地域の方やお店の方に聞けば、容易に真実が分かるのだろうが、よしぼう橋と鶴屋本舗の関係を公に公表していないスタンスであるならば、本来は詮索するのも野暮なのかもしれない。

確かに鶴屋本舗とよしぼう橋は目と鼻の先。
鶴屋で働く人からも、元気にこの歩道橋を渡る子供達が見えていたはずだ。

地元の人ですらこの橋の謂れを知る人も少なくなっているようだ。
おそらく通学路である小中学校では地域学習で学ぶのだろうが、この歴史を知り次の世代へと語り継ぐことこそ、亡き我が子への悲しみの中でも地域の子どもの笑顔を絶やさぬために動いた人がいたことの証明にもなるのだ。

Kitakyu Heritage
Write by Taka

*重ねてになりますが、確証のない部分も含まれる記事です。今後信頼できるソースが判明次第追記にて更新いたします。

コメントを残す

Category

Kitakyu Heritage / キタキューヘリテージ

Taka

Taka

1981年生まれ 北九州市門司区在住 愛車はVolkswagen The Beetle / Vespa LXV125 / Moto guzzi V7(850)  かつてはカフェ勤務経験ありのコーヒー好き。調理師免許所有。街歩き 人間観察 ひとり旅 基本陰キャのコミュ障。悩みは飼い犬(ミニチュアピンシャー)が懐かない事。 人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。