2024/07/01
私は1981年(昭和56年)の産まれだ。
幼少期、戸畑にあった父方の祖父母の家に時折行くことがあった。
戦後最初期の団地だったと言われる中原団地の裏手で、その高い団地の陰に隠れる様に立つ日当たりの悪い古い木造家屋が祖父母の住居だった。
築年数こそ分からないが、軋む2階建ての建物は道路から1.5mほど下がった場所に建ち、いささかじめっとした薄暗い雰囲気で、幼い私には少し不気味で不安感すら感じていた。
庭とは言い難い玄関までの通路にはビワの木があり、その奥の小さな鶏舎でニワトリを飼っていた記憶もある。
玄関を入れば古い建物特有の匂いがあった。祖父は足が悪く、家の中に作られた小さな部屋で洋裁の仕事をしていて、その布の繊維やアイロンの匂いが入り混じっていたのではないかと思う。
不快には思わなかったが「じいちゃん、ばあちゃんちの匂い」と感じていた。
居間はタンスに囲まれなおさら狭く、ちゃぶ台を囲めば背もたれがわりになるような状態。がちゃがちゃとダイヤルを回すブラウン管のテレビの裏には窓があったが、極端に近い隣家の影響で採光はなかった。
「ピューイ」と言う音がよく聞こえた。製鉄所も近いこともあって、走る機関車の警笛だった。今でもその音を聞くとそんな戸畑の家の居間を思い出す。
専用軌道だった西鉄電車の戸畑線も近かったが、廃止され軌道跡はバス専用道となった。
幼心にもバスの専用の道など、なんて贅沢なのだろうと思っていた。
2階には急な階段を登った。
奥行きが短い踏み板は、塗られたニスが長くの使用でなおさらツルツルに磨かれ、それに加え歪みが出て手前側に僅かに傾斜しているので、急角度と相まって上り下りには注意する様に都度言われていた。しかしそんなことはお構いもない子供なのでドタバタと走り回っていた。記憶こそないが踏み外して痛い思いをしたこともあったのかもしれない。後年には手すりこそつけられていたが、バリアフリーとか安全性とか重視されていない時代のことだ。
2階に上るとこちらは布団の匂いがした。あるいはカビくさい様なそういう匂い。今でも古い木造住居にお邪魔することがあるが、そこで感じられる独特な匂いだ。
擦れた畳の床は波打っていて、歩くとギシギシと音をたてた。あまりはしゃぐと冗談混じりに「床が抜ける!」と怒られることもあったが、そんなことはありえないと子供心に思っていた。
しかし後年本当に床が抜ける危険となったらしく、立ち入りが禁止された。さすがにそればかりは冗談に感じられず、私は2階には怖くて行くことはなくなった。
2階での記憶といえば、祖母から貯金箱から取り出された500円玉をお小遣いとしてもらったことだ。
1982年(昭和57年)に500円硬貨として発行され始めていたので、いわゆる500円玉貯金の先駆けだったのかも。
それを渡されて「コーバイカイでお菓子でも買いぃ」
祖母はよく「コーバイカイ」と言う言葉を使った。
正月準備では「買うもの多いけ、コーバイカイに車で連れてきぃ」「コーバイカイでもち米買わなな」
盆には「コーバイカイ行って花買うてこんと」
「コーバイカイ」の意味はよく分からなかったが、お年寄りは買い物をするスーパーのことを総じて「コーバイカイ」と言うのだろうと思っていた。
祖父母の家から歩いて10分ほどの場所に「コーバイカイ」はあった。
家を出てすぐにくろがね線があった。くろがね線とは八幡製鉄所の八幡エリアと戸畑エリアを結ぶ貨物の専用軌道であり、住宅地のど真ん中を貫く。貫く、とは言っても深い切り通しになっていて、いつもフェンスや跨線橋から電車が走っていないかと眼下を覗き込んだが小さい頃一度もその姿を見ることはなかった。
ここに電車が走っているのを初めて見たのは割と最近だ。そもそも便数が少ないし騒音対策で極端に低速で走るため、偶然でもない限りこの近辺に住む者以外は滅多に見ることはない。
線路はあるのに電車の姿のない跨線橋を渡り、少しゆくと「コーバイカイ」はあった。
「テツビル」なのにな。
「テツビル」とは当時市内のどこにでもあったスーパーマーケットの名称だ。
この頃記憶のあるスーパーといえば、「テツビル」「スーパー大栄」「マルショク」あたり。
時折行くのはマルショク系列の到津の「サンリブ」
西鉄電車に乗って、いとうづゆうえん前の電停からクジャクの門を横目に、安全地帯から横断歩道を渡れば食品から服飾までなんでも揃う大きな店舗があった。
2階の奥におもちゃ屋さんがあって、買い物をした後は1階でソフトクリームかフローズンを食べる。
子供にもワクワクする様な場所だった。
話は逸れたが、私の当時の「テツビル」といえば近くに住んでいたこともあり、八幡東区の荒生田(あろうだ)の「テツビル」だ。
不確かな記憶だが、電車通りに面して書店があり、その脇を薄暗い商店街がある。抜ければ観賞魚屋さんがありいつも不思議な気持ちでタライに入った金魚を眺めていた様な記憶がある。年末になるとしめ縄飾りの露店で賑わっていた。その先にあったのが「テツビルストア」だった。
今となっては荒生田地区は再開発ですっかり綺麗な街になっているが、「テツビル」の名残はある。
◇◇◇
そんな「テツビル」や「コーバイカイ」と言う言葉は祖母の死後聞くことはなく忘れていたが、大人にになり何かの折に「コーバイカイ」の名を聞くことがあった。
「コーバイカイ」は「購買会(こうばいかい)」だと。
◇◇◇
祖母の言っていた「購買会」はもともと八幡製鐵所の構内で売店を運営していた購買部が語源である。
製鉄所内で勤務する人たちが利用する福利厚生の一部であった。
後に製鉄所の社宅に併設する形で「八幡製鐵所購買会」という名称で働く人とその家族のみ利用できる会員制スーパーとして店舗を構えることとなった。
それがその後一般向けにも開放され名称を「テツビルストア」に変えた。
「テツビル」とは運営する会社が「八幡製鐵ビルディング株式会社」だったため。
「テツビル」は北九州市内にはかなりの店舗数があったがその名称はもうない。
しかし「テツビル」は「スピナ」と名前を変え今も市内のスーパーとして親しまれている。先の荒生田の「テツビル」も「スピナ」となり今も経営している。
運営会社こそ八幡製鐵所から離れてしまったが、「スピナ」は英語のスピナッチ(ほうれん草)から来ている。
ほうれん草=鉄分豊富、「鉄」のマインドは名称として引き継がれているのだ。
余談だが北九州名物と言っても過言ではない「くろがね堅パン」を取り扱うのもここ。
元々八幡製鐵所の”製鐵マン”向けだったのが始まりだった。
過去記事:くろがね堅パンのお話
調べると1986年(昭和61年)に「テツビルストア」の名称が使われ始め、「スピナ」に変わったのは1993年(平成5年)。
私の記憶する頃は割とテツビルの名称に変わってすぐだったらしい。
◇◇◇
祖母に関わらず、ある一定の年齢以上の方は確かに「コーバイカイ」の名称をよく使っていた。
我が家の家系に製鉄所関係で働いていた人がいたと聞いたことはないので、一般市民としても「購買会」は生活の一部となっていたのだろう。
今となっては「コーバイカイ」と耳にすることはないが、まだ北九州市民にはその名前を懐かしく思う方もいらっしゃるだろう。
その響きには昭和のノスタルジーと共に、忘れかけていた亡き祖父母の思い出と、握りしめた500円玉の感触を呼び起こしてくれた。
Kitakyu Heritage
Write by Taka