キタキューヘリテージ Kitakyu Heritage 近代化遺産

若松の栄華の象徴【キャバレーベラミ】

time 2025/03/07

北九州市若松区

もともと洞海湾に接する小さな漁村だったこの地は、明治以降日本の近代化が進むにつれ港が作られ、鉄道が敷設され、筑豊地区で採掘された石炭の積み出し港として大いに栄えた。

その繁栄ぶりは、洞海湾に面した若松バンドと呼ばれるエリアに数多く残る歴史的建造物で感じる事ができる。

多くの企業がここ若松に集まり、それに伴い日本中からやってきた労働者も増えた。

人が集まれば形成されるのは繁華街。
多い時では料亭が100軒以上もあったと言う。
飲食業や娯楽、病院などの社会インフラも整い、その隆盛は想像に難くない。

今回フォーカスを当てるのはその中でも特に華やかだったとさされる場所。


【キャバレー ベラミ】だ。

昭和30年台から昭和50年台にかけて若松で夜の街を象徴する店だったと言う。


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この記事では、現存する【ベラミ山荘】で発見された資料に基づき執筆しています。記事内の写真につきましては使用可能との事で貴重な資料として紹介させていただきます。しかしその繁栄とは裏腹に写真や資料がほとんどなく、この記事では沿革を元に、個人的見解や想像、推測、SNSで頂いた証言などから考察し執筆しています。不確定なものも多いので予めご了承ください。
情報などありましたらコメント欄や公式SNSなどでご連絡いただけると嬉しいです。今後新たな資料があれば追記いたします。 Kitakyu Heritage Taka

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キャバレーとは舞台を有しダンスや歌唱、バンド演奏、はたまた手品やモノマネ、切り絵に伝統芸能…さまざまなエンターテーメントを興行し、テーブルではホステスが接客する形態の飲食店を指し、日本では戦後からそのブームが始まり、昭和30〜40年代が流行のピークだった。

ベラミも概ねその頃が最盛期だったようだ。

キャバレーでは無名有名含め数多くのタレントが全国行脚で店から店へと渡り歩き、興行を行っていたそうだ。
名のあるプロダクション所属の者もいれば無名で日銭を稼いでいた者、大きな夢を抱き努力していた者、まさにジャパニーズドリームの世界。

戦後のキャバレー文化が今日に続く日本のエンタメ業界の源流なのかもしれない。

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北九州市内でも多くのキャバレーがあったと言う。
私は世代ではないので知り得ない時代のことだが、小倉の「月世界」「新世紀」「シスコ」などの話はよく聞く。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより一部トリミング・加工

1975年(昭和50年)の小倉北区砂津付近の航空写真だが、目立つ赤い丸屋根がキャバレー【月世界】
その下は現在のチャチャタウンで、西鉄電車の砂津車庫だった。

この辺りには電柱にいまだに「月世界」と書かれたプレートがある。
これはNTT(旧日本電電公社)の電話線の引込みで使われた電柱で、恐らくだが設置当時に名付けられたものが便宜上今現在も使われているのだと考えられる。

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話を若松に戻す。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより一部トリミング・加工

これも1975年(昭和50年)の写真だが、位置関係としては左下が高塔山公園、特徴的な野外音楽堂が確認できる。

一方右上に見える大きな青い屋根の建物、これこそがキャバレー ベラミだ。

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創業は若松の中心街である本町にあったが、沿革と下の写真の移転案内から読み取るに、1965年(昭和40年)?に大井戸町に移転されている。
英語の表記もあるので、外国人客も多かったのだろうか?

英語表記といえば、ベラミのアルファベット表記だが、”BERAMI” ”BELAMI” ”Belleamie”など複数存在する。
表記が安定しないのはミス、というよりただのアバウトさだったのではないだろうか。そんな時代といえばそんな時代だったのかも…


その店名の由来に関してもはっきりとしなかったが、マッチ箱の’Belleamie’はフランス語で直訳するとBelle Amieで、”美しい 友達’”となる。
1885年にフランス人作家が小説 ”Bel Ami’”を出版し、1948年(昭和23年)に日本語訳で”ベラミ”と表題を付けられ出版されているので、オーナーがそこからインスピレーションを得て店名にしたのでは、と思う。
どことなく日本語では夜の妖艶さと女性的な響きを感じ取れるので、キャバレーの名としては印象的だったに違いない。実際に店が無くなって数十年経つ今でも”ベラミ”の名を懐かしく覚えている方も多い。

これだけ大きな建物で、栄華を極めたキャバレーだったが、先ほどのモノクロ写真しか実際の店舗が写っている写真を見た事がなく、他の写真があればぜひ見てみたい…

いち地方の飲食店に社史が残る事もなく、また夜の店という性質上も少なからずあったのかもしれない。
しかし若松の方に話を伺うと、やはりその存在感は大きかったらしく、個人で写真を持っている方もいらしゃるのではないかと思う。

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現在ベラミがあったその場所は葬祭場となっている。
砂津に残っているような電柱のプレートなどがないだろうかと周辺を探してみたがその痕跡は皆無だった。

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ベラミの店内配置図。
数字が振ってあるのはテーブル番号だろう。それを囲むように椅子(イメージでは座り心地の良い赤いモケットのソファ)がバンドステージに向けられている。
ステージ前には一部テーブルがないエリアが…花道と呼ぶのが正しいかはわからないが、パフォーマンス、客との触れ合い、”おひねり”を渡すのもここなのだろうか?

カウンターにも椅子席が。止まり木、と言った方がいいか。

エネルギー革命が起こり石炭産業が衰退してゆくと、日本一とも謳われた若松の石炭積出港は徐々にその活気を失っていった。

人が去ってゆく街。華やかで隆盛を極めたキャバレーベラミも、昭和50年台後半には業績が悪化。
この頃より小規模でカジュアルなキャバクラの出現や、カラオケなどの新しい娯楽が生まれ、いささか古くさくなってきたキャバレーは日本各地から姿を消していった。

昭和のカルチャーとしてその華やかさから多くの人々を惹きつけたキャバレー。
若松のベラミもまた時代に翻弄され、営業を終えた時期は定かではないが、1989年(平成元年)に会社は解散している。

その後建物がいつまで残っていたかはわからないが、若松で当時を知る方々は口を揃えて「懐かしい」と言う。

それほど若松の街では印象的で、かつ華やかさの象徴だったキャバレーベラミ。

見た事のないのない世界、そしてもう見ることのない景色だとわかっていても、その魅力と人々を惹きつける何かをキャバレーベラミには感じずにはいられないのだ。

Kitakyu Heritage
Write by Taka

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Taka

Taka

1981年生まれ 北九州市門司区在住 愛車はVolkswagen The Beetle / Vespa LXV125 / Moto guzzi V7(850)  かつてはカフェ勤務経験ありのコーヒー好き。調理師免許所有。街歩き 人間観察 ひとり旅 基本陰キャのコミュ障。悩みは飼い犬(ミニチュアピンシャー)が懐かない事。 人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。


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