キタキューヘリテージ Kitakyu Heritage 近代化遺産

製紙工場引き込み線と橋脚の名残(歴史編)

time 2023/01/06

「紫川を渡る鉄道の橋をすべて挙げよ!」

と、いきなりのクイズだ。
鉄道マニアならずとも地理感のある方なら簡単に答えは出るだろう。

河口付近にJRの[鹿児島本線]と[日豊本線]が並行してて…あ、[山陽新幹線]も入る?
後は少し上流、北九州都市高速紫川ジャンクションの辺りに、ぐるっと回り込んできた[日豊本線]の鉄橋がもうひとつ。
勝山橋には廃止された[西鉄北九州線]の併用軌道もあったよね?

もちろん鉄道の歴史を紐解けばその鉄道会社や路線名こそ変わっているが、思い浮かぶと言えばこの辺り。
おおむね正解である。

◇◇◇

さて、下記のMapをご覧いただきたい。
小倉北区、紫川の【豊後橋(ぶんごばし)】付近の地図である。大きな総合病院や企業の工場のあるエリアだ。

目を凝らせど現代の地図に鉄道は見えない。

ここには極めてわずかな期間【鉄道橋】が存在していた。
今回はその歴史を辿り、痕跡を探してみよう。

◇◇◇

まずはこの【鉄道橋】を探る上で切れない関係にある”戦争”について紐解こう。
時は遡り、時代は昭和10年代。
以下の地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。

画像左側は1936年(昭和11年)の地図だ。右は現代の地図で、中心が【豊後橋】、当時はまだ橋がなかった。

画像の左手の大部分は【*小倉陸軍造兵廠】の広大な陸軍用地だ。
*注釈:1936年(昭和11年)当時は【小倉工廠(こくらこうしょう)】であったが、ここでは【小倉陸軍造兵廠】と表記する。

現地案内板より

造兵廠とは陸軍直轄で兵器を製造していた工廠(工場)である。
その規模は地図を見て分かる通り、相当に広大であった。

また、地図を見て分かる通り、その広大な工場群には鉄道が引き込まれていた。
ここで作られた兵器は列車によって陸軍の弾薬庫や輸送拠点へと運ばれていた。

西小倉駅から南小倉駅へと向かう途中から東方向へ分岐し、厳重な鉄道門より工廠内へと引き込まれていた。

現在では原町緑道として整備され、地域の人の散歩コースであったり憩いの場となっている。

本線より緩やかなカーブを描くのが引き込み線跡。
途中で分岐し、北側や紫川に沿って線路が伸びていた。
(廃線マニアなら航空写真だけでそれが見えてくるw)

言うまでもなく工廠内は厳重な規制があり、高い壁や塀により機密が守られた。今でもその名残の石垣や壁、陸軍の用地杭などが現存するが、それはまたの機会に紹介したい。

◇◇◇

話は紫川を渡っていたとされる鉄道橋に戻る。

1945年(昭和20年)、戦争が終わると小倉陸軍造兵廠は進駐軍に接収され、1959年(昭和34年)まで厳しい管制下に置かれた。
その後工廠の跡地は大規模な区画整理が行われ、現在は民間や官公庁の土地となっている。

接収解除後残された引き込み線も必要なくなり、撤去されるのが運命だったでのではないだろうか。
事実、1960年代半ばごろよりモータリゼーションが進み、貨物の鉄道輸送は自動車に取って代わろうとしていた。

そんな鉄道輸送から自動車輸送へと変わろうとしていた過渡期、わずかな期間に存在していたのが今回紹介する【鉄道橋】である。

次回 製紙工場引き込み線と橋脚の名残(遺構編)ではその痕跡を辿る。

{続く}



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Taka

Taka

1981年生まれ 北九州市門司区在住 愛車はVolkswagen The Beetle / Vespa LXV125 / Moto guzzi V7(850)  かつてはカフェ勤務経験ありのコーヒー好き。調理師免許所有。街歩き 人間観察 ひとり旅 基本陰キャのコミュ障。悩みは飼い犬(ミニチュアピンシャー)が懐かない事。 人と人、歴史の点と点、結びつければ歴史が紐解かれる。


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