2024/07/01
岩松助左衛門と【白洲灯台】の項で、いくつか解らなかった事が、今回旧岩松家の一般公開を通じて、貴重な写真と、助左衛門の玄孫の方のお話を聞き解明した事がある。
まずはおさらいだが、この写真↓
小倉城内にある白洲灯台のレプリカだが、これは実際には建設されていない。
旧岩松家の床の間には陶器製の白洲灯台があるよ。
岩松助左衛門が政府に提案した設計図を基にしている訳だが、海外からの最新の技術が取り込まれつつあった明治初期にはすでに設計が古く、明治政府はイギリス人技師のブラントンに設計を依頼する事になる。
それが貴重な次の写真↓
中央左に写っているのがブラントンの設計した木造の【初代白洲灯台】だ。
助左衛門は基礎工事を進めていたが、志半ばにしてこの世を去る。
中央右手に見える石垣が、助左衛門が工事を行っていた基礎の跡だと言う。
その右側の小屋は、灯台守が常駐する小屋だ。
手書きで「栄吉住居」と書かれているが、栄吉は助左衛門の次男で、日本各地で灯台守として働いていたそうだ。父の志の白州灯台でも海の安全を見守っていたとは感慨深い。
日本では灯台の無人化が進み2006年(平成18年)を最後に全ての灯台守がいなくなった。
豆知識だ!
1873年(明治6年)に初点灯。
石油を炊いて夜通し海上を守っていたと言う。
続いてはおなじみの縞しまの灯台↓
wikipediaのこの写真はTakaが投稿したぞ。
これは1900年(明治33年)に初代よりやや南側に設置された、現存する【二代目白洲灯台】だ。
下部が石積みで、上部は鉄製の今なお残る丈夫な灯台だ。
縞しま模様は初代が1876年(明治9年)に船の帆と同化しないように塗り分けた物を引き継いだ。
次の写真も貴重な物だ。
恐らく戦前から戦後あたりの写真だと思われる。
灯台の傍らに同じピッチで塗り分けられた円柱状の物が見える。
これは謎の鉄の輪っかとして、もしかしたら軍施設の跡?と記事には書いたが、これは元々は石油タンクであった、と言う話だ。
最近ではLEDを用い、電源は太陽光発電でまかなえていると言うが、当時は石油を一晩中炊いていたため、大きなタンクが必要だったと言う訳だ。
不要になり解体され、下部がリング状に残っているのだろう。
写真は一機しか見えないが、リングはふたつあったので、二機タンクがあったのかもしれない。
そして、灯台右手の小屋。
これも前回までは何かは解らなかった、煉瓦の基礎の元の姿だ。
実はこちらが旧日本軍が設置した軍施設だと言う事だ。
確かに照空分隊が置かれていたと言う資料もある。
サーチライトで夜間上空を照らし敵機を探し出す為の物だ。
高射砲隊も置かれていたと言う。
航海の安全を守るはずの灯台の傍らにまで戦争は侵食していたのだ。
今回、新たな発見と非常に貴重なお話を聞く事が出来た。
それでもまだまだ知らない事実や、興味は尽きないものだ。
身近な歴史にこそ、深い深い物語がある事を白洲灯台は改めて教えてくれたのだ。
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最後になりましたが、興味深いお話を伺ったり、貴重な写真の掲載を許可していただいた関係各位に感謝申し上げます。